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第233話 女神のロビー活動⑥

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-03-01 06:01:34

 画面に並ぶ、通知の数々。

『三田村です。大田区の町工場の社長、涙ぐんで受け取ってくれました』

『鈴木です。ベルトラン様、手紙をお読みになり、すぐに秘書に指示を出されました』

 そして。

 見知らぬアドレスからの、数件のメール。

『天道社長の奥様へ。かつて社長に救われた恩、忘れておりません。少額ですが、明日朝一番で口座に振り込みます』

『奥様のケーキ、美味しくいただきました。我々下請けのネットワークで、可能な限りの資金を集めます。天道社長に、決して一人ではないとお伝えください』

 私は、画面を見つめたまま、涙が溢れるのを止められなかった。

 届いた。

 私の、いえ、彼のこれまで蒔いてきた誠意の種が、一斉に芽吹き始めたのだ。

「……莉子? どうした、なぜ泣いている」

 私の涙に気づいた征也が、顔を上げて怪訝そうに尋ねる。

 私はスマホの画面を彼に向けた。

「……見て」

 征也は目を細め、画
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  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   次世代編 第94話 おかえり、私たちの魔王

     莉子が空を見たいと言った。  なら、まずは空を見せる。  手を出すのは、その後でいい。  少し離れたベンチでは、陽向がスマートフォンを耳に当てていた。 「……分かった。今日は店に寄る。無理すんなって、お父さんにも言っといて」  声は低くなったが、話し方はどこか柔らかい。  電話を切った陽向は、こちらの視線に気づくと、照れくさそうに眉を寄せた。 「見んなよ」 「見てないわ」  莉子は即答した。 「声が優しかったなと思っただけ」  陽向は耳まで赤くなり、そっぽを向いた。  結衣はその横で、イヤホンを片耳だけ外して笑っている。スマートフォンの画面には、レイの新しいライブ映像が流れていた。以前のように、画面の向こうの相手を自分のものにしたいという熱はない。  ただ、知らない街の小さなステージで歌う誰かの自由を、少し眩しそうに眺めている。 「結衣」  莉子が呼ぶと、結衣はすぐに顔を上げた。 「なに、ママ」  その呼び方に、莉子はまだ時々泣きそうになる。 「今度、その人の歌を聞かせてね」  結衣は一瞬だけ目を丸くし、それから、照れたように笑った。 「うん。……でも、泣くかも」 「いいよ。泣きながら聞こう」  征也が、少し困ったように二人を見る。 「病室で大音量は許可しない」 「誰も大音量とは言ってないでしょう」  莉子が呆れた声を出すと、陽向が肩を震わせて笑った。  その笑い声につられて、結衣も笑う。  征也は不本意そうに眉を寄せたが、口元だけは僅かに緩んでいた。  中庭の風が、四人の間を通り抜ける。  カサブランカの香りも、消毒液の匂いも、ここにはない。  代わりに、土の匂いと、若葉の匂いと、どこかの病室から運ばれてきた昼食の出汁の匂いがした。  莉子は膝の上の手を見つめた。  まだ細く、頼りない手。  十二年前、握り返せなかった手。  征也の手が、そっと近づいてくる。  以前なら、迷いなく包み込まれていた。逃がさないという力で。守るという名の鎖で。  今、その手は莉子の少し手前で止まった。  選ぶ余地を残すように。  莉子は、ゆっくりと自分から指を伸ばした。  征也の掌に触れる。  彼の手が震えた。 「莉子」

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    「みんなが、たくさん話してくれたから」  征也は、莉子の手を額に押し当てた。 「俺は……お前に、謝らなければならないことが」 「うん」  莉子は、弱く頷いた。  征也が言葉を失う。  莉子の瞳は、昔と同じ柔らかさを湛えていた。けれど、そこに何も知らない無垢さはなかった。長い眠りの向こうで声を聞き、温度を覚え、家族の痛みを受け取ってきた人の静かな深さがあった。 「叱ることは、たくさんあるよ」  征也の喉が震えた。  莉子は、ほんの少しだけ口元を上げる。 「陽向と結衣のこと。私を一人で閉じ込めたこと。自分だけで全部抱えようとしたこと。……たぶん、数えたら一日じゃ足りないね」 「……ああ」  征也は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま頷いた。 「全部、聞く」 「本当に?」 「本当だ」 「途中で社長の顔にならない?」  その言い方が、あまりにも昔の莉子だった。  陽向が、思わず小さく吹き出した。結衣も涙を拭いながら、笑いと嗚咽の間のような声を漏らす。  征也だけは笑えなかった。  幸せが怖すぎて、どう笑えばいいのか忘れてしまったような顔をしている。  莉子は、その頬に指を添えた。 「でも、まずは」  弱々しい声が、病室の中心へ落ちる。 「おかえり、私だけの魔王」  征也は、もう一度崩れた。  それは、すべてを許す言葉ではなかった。  それでも、長い夜の向こうから差し出された、小さな灯だった。  医師が静かに、今日はここまでにしましょう、と告げる。  莉子の身体はまだ目覚めたばかりで、すぐに疲れてしまう。再び眠りに落ちることもある。長いリハビリが必要になる。十二年の空白は、奇跡一つで埋まらない。  それでも、誰も落胆しなかった。  莉子は生きて、見て、聞いて、名を呼んだ。  それだけで、天道家の止まっていた時計は、確かに新しい一秒を刻み始めていた。◇ 数週間後。  病院の中庭には、春の風が吹いていた。  桜はほとんど散り、若い葉が枝先に光を受けて揺れている。車椅子に座った莉子の膝には、薄いブランケットがかけられていた。まだ長く座っているだけでも疲れる。指先に力が入りきらない日もある。目覚めたからといって、すべてが元通りになるわけではない。  けれど、莉子は空を見上げていた。  病室の天井ではない。  

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     征也は、最初、それを錯覚だと思った。  十二年も待ち続けていれば、人は都合のいい幻をいくらでも見る。指先が動いた気がする。まぶたが震えた気がする。声にならない声が、自分の名前を呼んだ気がする。  そのたびに、征也は期待して、すぐに自分を戒めた。  奇跡などない。  数字は冷たく、医師の説明は慎重で、朝はいつも何事もなかったようにやって来る。  だから、莉子の指が掌の中でかすかに力を帯びた時も、征也はすぐには顔を上げなかった。 「……また、俺の都合のいい夢か」  掠れた声で呟く。  だが、次の瞬間。  莉子の指が、もう一度、征也の手の内側を弱く押した。  それは、反射にしては遅く、偶然にしては確かだった。  征也の呼吸が止まる。  顔を上げるまでの一秒が、ひどく長かった。  ベッドの上で、莉子の睫毛が震えている。春の朝の光を受けたその睫毛は、薄い影を白い頬に落としながら、何度も、何度も、小さく揺れた。 「莉子」  声が出たのか、自分でも分からなかった。  扉の外で、陽向が弾かれたように一歩踏み出す。結衣がその腕を掴み、二人は息を詰めたまま病室の中を見つめた。  莉子のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。  眩しさに耐えきれないように、瞳が細く震えた。  琥珀色の瞳。  十二年間、征也が夢の中で何度も見た色だった。  その瞳が、ぼやけた天井を映し、白い照明を映し、やがて、涙で濡れた征也の顔を捉えた。  征也の身体から、力が抜けた。  膝が床に落ちる。椅子が後ろへずれ、かすかな音を立てる。だが、征也の手は莉子の手を離さなかった。離せるはずがなかった。 「……莉子」  今度は、声になった。  喉の奥から絞り出した名前が、病室の白い空気に溶けていく。  莉子の唇が動いた。  乾いた唇は、すぐには言葉を作れない。呼吸の管に支えられてきた身体は、長い眠りから急に戻されたばかりで、声の出し方さえ忘れているようだった。  征也はナースコールへ手を伸ばそうとした。  その手首に、莉子の指がわずかに絡む。  行かないで、と言っているようだった。 「ここにいる」  征也はすぐに言った。 「どこにも行かない。看護師を呼ぶだけだ」  震える指でナースコールを

  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   次世代編 第89話 魔王の涙

    「だから……一度でいい」  征也の喉から、子供のような息が漏れた。 「一度でいいから、俺の名前を呼んでくれ」  その瞬間、病室の扉の外で、小さな衣擦れの音がした。  征也は気づかなかった。  扉は、完全には閉まっていなかった。看護師が出入りした時に、ほんの指一本分だけ隙間が残っていたのだ。  その向こうで、陽向と結衣が立ち尽くしていた。  陽向は、握っていたスマートフォンの電源を落とすことも忘れていた。画面には父からの短いメッセージが残っている。  ――莉子に変化があった。まだ確定ではない。来られるなら来い。  命令のようでいて、初めて共有された弱さだった。  陽向は、扉の隙間から見える父の背中を見つめた。  かつては壁のように巨大だと思っていた背中が、今はベッドの脇で折れ曲がっている。莉子の手に縋りつき、顔を上げることもできず、何度も、何度も謝っている。  陽向の胸に、長く張りついていた硬いものが、ほんの少し形を変えた。  怒りは消えない。けれど、目の前の父は、初めて弱い人間の顔をしていた。  そう分かったからといって、陽向の中の怒りがすべて消えるわけではなかった。十二年の孤独は、たった一夜の懺悔で帳消しにできるほど軽くない。  それでも、父が怪物ではなく、怪物のふりをしなければ立っていられなかった人間だったのだと、初めて思った。  隣で、結衣が両手で口元を覆っている。  涙が、指の隙間から零れていた。  理想の父。完璧な父。どんな願いも叶えてくれる、強くて冷たい魔王。  その幻が、音もなく崩れていく。  崩れた下にいたのは、莉子の名を呼ぶことしかできない、不器用すぎる夫だった。  結衣は胸の奥を押さえた。  レイに拒まれた夜の痛みが、遠い場所で微かに疼く。  あの時の自分も、相手を見ているつもりで、本当は自分の寂しさばかり見ていたのかもしれない。  唇を噛むと、涙の味がした。  病室の中で、征也はまだ莉子の手を握っていた。 「戻ってこい、莉子」  声は、もう命令ではなかった。 「俺のためじゃなくていい。陽向のためでも、結衣のためでもいい。お前が戻りたいと思う場所へ戻ってこい。……俺は、そこにいる。今度は、お前を閉じ込めるためじゃない。お前が歩く時、転ばないように、隣で手を出すためにいる」  言い終えると、

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